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「史実としての武蔵は要約して約七十行」と言い切ったのはほかならぬ吉川英治である(『随筆宮本武蔵』)。あの膨大な小説『宮本武蔵』(文庫本で八冊。最初は新聞に連載された)を書いて広く読まれ、何回も映画化され、ラジオでも放送され(これを私は幼いころ楽しんで聴いた。徳川夢声の声を今も憶えている)、日本人の間に確固とした宮本武蔵像を植えつけてしまった“張本人”で、何とも凄い手腕だと感心するが、それが僅か七十行の史実から紡ぎ出されたことを思うと、改めてペンの力の強さに感嘆せざるを得ない。
その、歴史に残る宮本武蔵の「約七十行」の足跡の主たるものは、細川家の客分となった晩年から死去に至る熊本でのそれだが、あとは関門の地、巌流島と小倉ということになる。
私たちはまず小倉城を訪ねた。
時あたかもことしは築城四百年になる小倉城は慶長七(一六〇二)年、細川忠興によって着工された。約七年を費やして完成したといわれるが、五層六階で唐風という珍しい様式の天守閣は当時、さぞかしあたりに威風を放ったことだろう。現在の天守閣は、天保八(一八三七)年焼失したままになっていたものを昭和三十四年、市民の熱望により再建されたものだとか。天守閣は再建だが、石垣は当時の面影を十分に残している。切石を使わない野面積みで、大々として豪放である。
ところで小倉と武蔵の関係だが―。武蔵は寛永三(一六二六)年、明石城主・小笠原忠真に仕官を求められたが、それを断り、代わりに養子の伊織を仕官させた。それから六年、熊本の加藤忠広(清正の跡)が改易になり、小倉の細川氏がそこへ転封、小倉には明石から小笠原氏が入部することになった。伊織は当然、君主に従って小倉に移ったが、武蔵もともに小倉に居住することになったというのである。
伊織は器量優れた人物だったのだろう、小倉藩で重用され、寛永十四(一六三七)年に起こった島原の乱には侍大将として出陣し、その功により筆頭家老になり、二千五百石を給わっている。小倉城天守閣二階には、島原の乱出陣前の、藩主を前にした作戦会議をからくり人形で再現したコーナーがあるが、その席に宮本伊織が連なっている。
ちなみに武蔵も五十も半ばにして島原の乱に参戦している。吉川氏は先に挙げた本に、「拙者も石にあたり、すね(臑)たちかね申故」などと認めた武蔵自筆の手紙が第二次大戦後、有馬家文書から新たに発見されたことを書いている。
私たちは小倉城をあとに、手向山公園に向かった。そこには、武蔵と小次郎の碑がある。小倉北区にある小高い手向山は伊織が藩主から拝領した土地だったという。
武蔵の碑は、武蔵没後九年の承応三(一六五四)年、伊織が養父の行跡を、熊本での晩年に故人が親しく交わったという禅僧の泰山和尚に撰文・揮毫を依頼して、建立したものである。高さ四メートルほどの自然石に彫られた字は、(吉川氏は泰山のことを大した人物ではなかったように書いているが)、さすがに江戸初期の禅の人、なかなかしっかりした字であった。千数百字という碑文の最初のほうに「播州赤松氏末流新免武蔵」などという字が読めた。この碑は現在、武蔵に関する有力な資料の一つになっている。
小次郎の碑は、武蔵の碑から少し離れた所に建てられている。これは小説『佐々木小次郎』を書いた作家の村上元三氏が記念に昭和二十七年建てたものだそうで、「小次郎の眉涼しけれつばくらめ」の句が活字体で彫られている。瀟洒でつつましい碑であった。
関門海峡を間近に望む手向山からはふだん巌流島が見えるとのことだったが、私たちが行った日には残念ながら霞んで見えなかった。
門司港へ出て軽い食事を済ませた後、スペース・クルーズの「ヴォイジャー」に乗った。巌流島を間近に見るためである。
巌流島はもともと船(舟)島といい、武蔵が慶長十七(一六一二)年四月十三日、小次郎と闘い、斃した場所であることは言うまでもない。島に近づいた船上から私は目を凝らして当時の情景を思い浮かべようとしたが、周りに石垣があり、観光地化するためであろう、クレーンが入り、トラクターも見え、厳粛なる決闘の場面を想像するのは難しかった。
それより船での五十分間の遊覧は思いのほか楽しかった。下関と門司の両岸の眺めをほしいままにしながら、一種エキゾチックな雰囲気を、私はずっとデッキに出て風に吹かれながら、子供みたいに興奮して楽しんだ。
帰途、壇ノ浦PAに寄った。ここからの海峡の眺めは何度見ても飽きない。売店に入ったら、武蔵・小次郎にちなんだお菓子のコーナーがあった。記念のために私は「おそいぞ武蔵」というのを買った。帰って食べたら、結構甘かった。
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