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カクテル物語 vol,3
「シンガポールスリング」

 
 
 
文●藤野正明
(イムリ・Barman)
バ−テン歴二十八年。

 

 このカクテルの歴史は古い。創作は1915年。イギリスの文豪サマセット・モームが愛したシンガポールの名門「ラッフルズ・ホテル」で考案された。モームが”東洋の神秘”と讃えた、この国の夕焼けを表現したカクテルだ。
 ジンとチェリー・ブランデーをメインに、レモンジュースとガム・シロップで甘みと酸味を加える。アクセントは、夕陽に見立てたさくらんぼ、マラスキーノ・チェリー。
 いわゆるトロピカルカクテルの傑作で、本来なら夏が似合う飲み物なのだが、私の店には冬になると必ずこのカクテルを注文するお客様がいる。
 お客様の名前はNさん。大学で電子工学を教えていらっしゃる先生で、年齢は49歳、少し長めの髪と二重の大きな目が特徴だ。
 「そろそろシンガポールスリングお願いしようかな」
 「ああ、もうオーストラリアは夏ですか」
 Nさんのオーダーが入ると私は決まってそう答える。
 5年前のことだ。Nさんは仕事の都合でオーストラリアに単身赴任していた。2年間という期限付きなこともあり、病弱の奥様を日本においての赴任だった。
 広々としたキャンパス、おおらかな国柄。お互いをファーストネームで呼び合う教授同士の気さくな雰囲気に、Nさんは驚いたという。そして8ヵ月後、馴染みのパブも出来てこちらの生活にも少し慣れた頃、Nさんは一人の女性と出会う。
 彼女は同じパブの常連で、ブロンドの髪が美しい30代の女性。「初めて会った時からドキっとしてね。僕は研究が忙しかったせいもあって女性に恋した経験がほとんどないんですよ。妻ともお見合いだしね。恥ずかしい話、遅咲きの恋でした」
 誠実なNさんの気持ちが彼女に通じたのか、2人はまるでティーンエイジャーのようにデートを重ねた。
 夏のオーストラリア。紺碧の海。彼女にリードされトライしたダイビング。ロングボード。そして、海辺のバーで何度も飲んだシンガポールスリング。彼女の一番好きなカクテルだった。
 何もかもが生まれて初めてのことばかりで、毎日が嘘のように楽しかった。しかし2人は一線を越えることはなかった。
 彼に病弱の奥様がいたように、彼女にも心臓の病気で入退院をくり返す息子がいたからだ。
 「私だけが幸せになるわけにはいかない」
それが彼女の口癖だった。同じような境遇にいる彼は彼女の気持ちが痛いほどわかった。
 やがてNさんは帰国し、2人の間は徐々に疎遠になった。
以来、Nさんは年に一度だけ、冬のこの時期にシンガポールスリングをオーダーするようになった。
 私は彼がこのカクテルを飲む時だけは、何があっても話しかけないようにしている。
 なぜなら私の声は、南半球の夏にはとても不似合いだからだ。
 
 
 
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