vol,1 martini
ナナシノ・ゴンベエとは一体誰なのか、多くの読者の方から、そんな質問が私の拙いエッセイに寄せられたそうだ。
名を明かすのはとずいぶん悩んだが、これ以上読者を混乱させたくないという編集部の意向もあって、恥ずかしながら今回から本名で書かせてもらうことにした。
さて本題に戻ろう。今回ご紹介するのは、十九世紀半ばから世界中の人々に飲まれ続けてきたカクテルの女王、マンハッタンである。 イギリスの首相だったチャーチルの母、ジェニーが考案した、いやいや、アメリカ西部のメリーランド州のあるバーで、傷を負ったガンマンに気付けとして出されたなど、その誕生にはいくつかの説がある。またこちらもマティーニ同様、こだわるドリンカーは多く、ドライかスイートか議論が絶えないカクテルだが、私はマンハッタンを作るたびにいつも一人の友人を思い出す。
彼の名はK。ニューヨークでブルースシンガーを目ざしている男だ。
「もしもし、俺、うん、……また振られた」
受話器の向こうで彼が呟く。普段は便りひとつよこさないくせに、女性に失恋した時だけ、なぜか私に電話をしてくる。そして事の顛末を泣き声まじりで話すのだ。
「冗談抜きで君が好きだ」と口説き、「冗談にして下さい」と真顔で言ったS子さん、「日本の男はシャイだから嫌い」といわれ、果敢にアタックし、「あなただけはシャイでいて」と答えたケイト嬢など、おかげで私は彼の好きになった女性を全ていえる。
でも私は彼が振られるのをいつも心待ちにしている。それは失恋するたびに歌が生まれるからだ。話をひととおり終えると決まって彼は受話器の向こうで新曲を披露してくれる。
挨拶さえまともに交わせないこの街で/愛想笑い振りまき暮らしているよ/慣れるまでの間手紙は書かない/吐息交じりの声聞かせたくないから/小さな島に住む君へ/贈る言葉はないけど/今夜ここで歌うよ/アメリカよりもでかいマイラブ/
これが先日私が受話器越しに聴いた彼の新曲「小さな島に住む君へ」という歌だ。ごつい顔でシャウトするKの顔が浮かぶ。
私はいつか彼のためにとびきりドライなマンハッタンを作ってやろうと思っている。
ちなみに彼のオリジナルは、もうすでに五十曲を越えた。
いやはや恋多き男?である。
文●藤野正明(イムリ・Barman)
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